| しずくいしの由来 | |
![]() |
しずくいし・・・実にきれいな響きとロマンと感じさせてくれるこの地名は、昔、神社の境内にあった杉の巨木の根元から湧き出る清水が、岩を伝って「たんたん」と音を立てて落ちるので、人々が水神様として拝み、「滴石たんたん」と呼んで親しんだことに始まると伝えられています。実際、藩政時代には「雫石」は「滴石」と表記されていました。 この地名由来の場所である雫石神社へは雫石温泉からの散策が好都合。毎年8月15日には、町の中心街で「雫石よしゃれ祭」が行われ、京美人の系統を引くといわれる「雫石あねっこ」姿の女性たちにより長年にわたって唄い継がれてきた民謡「雫石よしゃれ」にあわせ華やかな手踊りのパレードが繰り広げられます。かすり姿の「あねっこ」たちは、深いあみ笠をかぶり、キリリとしたいでたちで、その姿は古き好き時代への郷愁を誘います。 |
| 盛岡中学時代に初めて雫石の町と出会った宮沢賢治は、その後いく度となく町を訪れています。岩手山から望む雫石の風景、小岩井農場で感じた四季の移ろいは、賢治の豊かな創造力を呼び起こし、数々の作品に登場します。まさしく雫石の風景こそ、理想郷イーハトーヴの原風景といえましょう。 |
|
| 初めての岩手山登山 | |
| 賢治が幼少の頃から鉱石採集が好きで、「石っこ賢さん」と呼ばれたことはあまりにも有名だが、親元を離れ盛岡中学に進んだ賢治の目は、当然のごとく近郊の山野にそそがれていた。 賢治は1910年中学2年の秋、学校の「植物採集岩手山登山」に参加し、初めて岩手山に登る。その時の情景が深く印象に残ったのか、同じ年の9月には同級生とともに再び岩手山を目指す。柳沢から上り山頂を極め、御釜噴火口、御苗代を経て網張温泉に下山。翌日小岩井農場を見学して後、盛岡に戻っている。 その後賢治は、盛岡高等農林学校、そして稗貫農学校(現、花巻農学校)の教員時代を含め、数十回にも及び岩手山に登っている。岩手山から見た雫石地域の風景は、賢治の脳裏に深く焼きついていた。 |
![]() |
| 小岩井農場への遠足 | |
| 中学3年の5月、賢治は遠足で小岩井農場を訪れる。小岩井農場は、3000ヘクタールの広さを誇る我が国唯一の民間総合農場で、その雄大さは賢治も「牧場の標本」と評したほど。 農場の北欧風のサイロなどの建物も、賢治の好奇心を刺激する。賢治の作品には、時折り西洋風の街や建物が登場するが、こんなところから生まれてきたのかもしれない。 賢治は、その後も繰り返し小岩井農場を訪れる。周囲には童話の舞台となった狼森や笊森が続いていて、農場や森の中に自然の営みを体験した賢治は、自然の素晴らしさと大切さを心の中に刻んでいく。 |
|
| 高等農林御明神演習林と経済農場の存在 | |
| 雫石の御明神には、盛岡高等農林付属の演習林と経済農場があり、果樹や畜産、林業の実習教育が行われていた。高等農林に進んだ賢治も、実習のためたびたび通うこととなる。 当時、現地までの交通はすべて徒歩。好奇心旺盛な賢治のこと、途中森や川に分け入り、植物や鉱石を見つけては道草をしていたに違いない。賢治は道々で山や里の景色をながめ、文学的な環境をいっそう募らせていく。賢治の詩や歌に、雫石の地名が多く登場するもの、そのためであろう。 |
|
| 秋田街道、青春夜行 | |
| 高等農林3年の夏、賢治は文学愛好の仲間と同人誌「アザリア」を発刊する。作品の合評会の後興奮冷めやらぬ賢治は、仲間3人と深夜秋田街道(現、国道46号)を歩き出す。 この若さゆえさすらいの旅は、賢治と雫石のかかわりと決定的なものにした。賢治の処女詩集は「春と修羅」。その冒頭を飾るのは街道筋に望む。七つ森を詠んだ「屈折率」である。雫石の情景が、いかに賢治の心に焼きついていたか。そんな思いを強く感じられるできごとである。 |
![]() |
| イーハトーヴの郷、雫石 | |
| 賢治は、修学旅行や地質調査のために、いくども旅行をしている。賢治の作品に登場するさまざまな場面には、その時の風景も描かれていると思う。 しかし「青春」という感受性豊かな時代に体験した雫石の情景は、賢治の作品に大きな影響を与えていたに違いない。まさに雫石の風景は「イーハトーヴの原風景」なのだ。 |
![]() |